◎異邦の騎士

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◎異邦の騎士 −完全改訂版−
島田荘司
講談社文庫


 その日、どうも腹の虫が治まらないことがあったり、体調が今ひとつでイライラしていたりする中で、本を開いて最初の数ページを追いかけているうちに、それら諸々の事情が消し飛んで、一気に作品世界に入っていけるような読書が体験出来たとしたら、それは幸せなことだと思う。
 島田荘司『異邦の騎士』はオープニングから、まさにそんな気分に満ち満ちていた。

 【失われた過去の記憶が浮かびあがり男は戦慄する。自分は本当に愛する妻子を殺したのか。やっと手にした幸せな生活にしのび寄る新たな魔の手。占星術師・御手洗潔の最初の事件。幾多の歳月を越え、いま異邦の扉が再び開かれる。】
 
 物語は記憶障害となった“俺”が、自分は何者であるのかを必死に再生していく過程で、とんでもない事件に関与していることが明らかになっていくというストーリー。“本格の旗手”の代表作ではあるが、作風としてはサスペンスに近い。
 冒頭、“俺”が公園のベンチで目覚める。まず思ったことが、路上駐車した車がレッカー移動されたら大変だということ。そして慌てて車を停めた場所に向かうのだが、車がない。「おかしいな!?こっちじゃなかったかな?まだ寝ぼけているらしい。どうやら表通りを反対側に歩き出してしまったのだ。逆だったのか。左へ曲がるべきだった。」
 こういう誰でも一度くらいは経験していそうな些細な描写が、次第に不気味さを孕んで、記憶喪失を“俺”が自覚して行く衝撃がなんとも怖い。もう文章の呼吸が絶妙だと思った。「一気に作品世界に入っていけるような読書」とはまさにこういう筆致をいうのではないだろうか。今どきの言葉を借りれば「掴みはOK」というやつか。
 ただ滑り出しは抜群で、期待感のハードルが上がったばっかりに尻つぼみになって殊更に失望させられる小説も少なくはない。もともと事件に関わりを持っていた人物に次々と危機が襲ってくる話はサスペンスの王道ともいえるもので、不遜ないい方をすれば、島田荘司は冒頭から一気に読者の思考回路を全開にされてしまった責任を、エピローグの終了まで負わなければならない。
 結論をいえば、島田荘司『異邦の騎士』はまごうことなく秀作だった。責任は見事に全うしたのだと思う。何故ならサスペンスの王道とはいっても、本格のセンスがなければ絶対にものにできない謎とトリックに満ち溢れていたからだ。
 単なる巻き込まれ型サスペンスの枠に留まらず、日記文なども織り交ぜながら、主人公が遭遇する極限の心的圧迫感とともに読者は伴走することになる。

 さて、私は『異邦の騎士』の「完全改訂版」とされるものを読んだ。この小説は『占星術殺人事件』より以前に完成していた処女作となる。ところが長い間、発表する機会のないまま、草稿が島田家の押入れで眠っていたのだという。このあたりの詳細は文庫本の島田自身によるあとがきで明らかにされているのだが、後年になってこの小説が箱入りの豪華本として刊行されるにあたり、改めてゲラを再読したときの感想を次のように述べている。
 「これが赤面の体であった。文章があまりにも下手くそで、穴があったら入りたくなった。(中略)現時点の筆者が到達している場所からは、やはりこれは、このまま読んでいただくには堪えないと感じた。したがって、いかに批判があろうとも、敢えて修正するのが創作者として正当な態度と信じた」とのことだ。
 『異邦の騎士』という作品の本質は、いかにサスペンスの中に巧みな謎とトリックを散りばめようとも、最終的には一人称による筆力がものをいった。例えば、鏡恐怖症のように都合の良い根拠不確定なものもあり、かなり偶発性スレスレのところでトリックが成り立っていたりもするのだが、読後には島田の筆致よって得たカタルシスがすべてだったではないかと思う。

 文庫本というものは、単に発表から何年かが経過したものを廉価で出版するものという解釈だった。例えば高村薫女史などは文庫化においては必ず改訂し、必要とあらばタイトルを変えることにも躊躇しないというのだから、新版の文庫本こそ小説の最終完成形を読むことができるという意味で、お得感満点であるという気もする。
 因みにこの処女作が、現実的には25冊目の出版となった理由として、島田はなかなかタイトルが決められなかったためだと述べている。その『異邦の騎士』というタイトルは絶妙だった。真の騎士とは誰であったのかということが明らかとなるクライマックスには島田荘司と御手洗潔のファンならば感涙したのではないか。
 私はこの実質処女作の前に『占星術殺人事件』を読んでおいて本当に良かったと思う。例によってネタはバラせないが、ラスト近くに御手洗が主人公に向かって語りかける一言には不覚にも鳥肌が立ってしまった。

 


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