◎津和野殺人事件

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◎津和野殺人事件
内田康夫
光文社文庫


 【山陰の小京都・津和野。そこで隠然たる勢力を誇る旧家にはある秘密が隠されていた。一族をめぐって起こる連続殺人事件を追う浅見光彦は、「赤いトンネル」の記憶に呼び寄せられて津和野を訪れた母娘とともに、事件の核心に迫っていく。】

 “信濃のコロンボ”シリーズを読んでいる時にはあまり感じなかったのだが、浅見光彦のシリーズに入ってから、ふと内田康夫が綴る物語の文体に女性的な肌触りを感じはじめている。内田康夫の顔写真はいたるところで露出し、大概の文庫本の巻末には素に近い形で自作解説が書かれているので、今さら女性的といってもピンと来ないのかもしれないが、例えば少々長く引用してしまうが、以下の母娘のやりとり-----。

実加代は「だめじゃない、一人で出かけちゃ」と怖い顔を作って見せた。 「ごめんなさい。でも、どうしても、もう一度確かめたかったのよ」 「それで、どうだったの?」 「やっぱり、赤いトンネルは間違いなくあそこだと思う。街から川を渡って、土手の道を歩いて……、そりゃ、たしかに雰囲気は違っているけど、そういう感じ全体が、何となく分かるの。そこを通って、赤いトンネルを抜けて、どんどん登っていったのね。泣ながら登っていったのかもしれない。さっき、登りながら、涙が出てきたわ」 「やだあ……」 実加代は慌ててハンカチを出して母に渡した。久美の目から、涙がこぼれそうになっていた。 「みっともないわねえ、朝から泣いたりするなんて」 「ごめん。変だわねぇ、悲しいわけでもないのに」 久美は頬を歪めて、泣き笑いをした。

 プロの作家ならば誰でもこの程度の会話は書けるといわれてしまえばそれまでだが、どうしても、これらのやりとりから醸される雰囲気に女性的な肌触りを感じてしまうのだ。
実際、これが女性作家の手による作品だと騙されれば納得してしまうだろう。浅見が中性的なモノセックスなイメージであることも含めて、この辺りの肌触りが内田康夫の読者に女性ファンが多い理由であるような気がする。
 母が遠い日に脳裏に焼き付けたという津和野の赤いトンネルの風景。そこを発端に旅情ミステリーの幕が開くという展開はすごく映像的であり、内田康夫の真骨頂なのだという気がする。
実際『津和野殺人事件』における内田康夫の津和野の描写は冴えに冴えている。読んでいて母親の記憶を追体験するために津和野に旅立ちたくなるくらいだ。風景描写もさることながら、乙女峠のマリア聖堂に因んだ津和野の隠れキリシタンの歴史も興味深い。
 
 結局誰一人として逮捕者が出ないという結末にさほど違和感を覚えなかったのは、むしろ旧家の相続争いから起こる連続殺人という本筋さえも津和野の情景描写に埋没してしまったからかも知れない。


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