◎沙高樓綺譚

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◎沙高樓綺譚
浅田次郎
徳間文庫


 【各界の名士たちが集う「沙高樓」。世の高みに登りつめた人々が、女装の主人の元、今夜も秘密を語り始める。やがて聴衆は畏るべき物語に翻弄され・・・。】

 最初に作品コンセプトを知ったとき、アイザック・アシモフの『黒後家蜘蛛の会』を想像した。会に招かれた人々が卓を囲み、ミステリアスな話に興じる。その話が不可解であればあるほど聴衆の好奇心は増幅され、夜会は異様な興奮に満ちてくる。
 いや、アシモフは読もうと思いながらまだ読んでいないので、連想ではなく想像と書いたのだが、どちらにしても様々な立場や職業の語り部たちは、それぞれ聴衆=読者を惹きつけなければならず、作家の筆力と豊富な知識、雑学が無尽蔵に試される連作集であることは間違いない。
 作品中に『百物語』が例に出たとき、ああ、最初から百物語を連想すべきで、無理してアシモフなんて想像する必要はなかったと思ったが、とにもかくにも『沙高樓綺譚』は“浅田次郎ショー”なのだと思う。

 「お話になられる方は、誇張や飾りを申されますな、お聞きになった方は、夢にも他言なさいますな。あるべきようを語り、巌のように胸に蔵うことが、この会合の掟なのです----」。

 青山墓地のほとりに聳えるマンションの階上、「沙高樓」と呼ばれるラウンジにて、女装のオーナーの進行で始まる語りの会。富を手にするも刺激に飢え、退屈を持て余す名士たちを相手に五人の語り部が物語を披露していく。
 もちろんその語り部五人のそれぞれの物語である『小鍛冶』『糸電話』『立花新兵衛只今罷越候』『百年の庭』『雨の世の刺客』が小説を構成していくのだが、ひょんなきっかけから「沙高楼」に招かれてしまった「私」が体験した会のレポートという側面もある。
 この門外漢の存在が「沙高樓」という世間から隔絶された集いに現実感をもたらし、読者がすんなりと小説世界に入っていける役を担ってくれるのが非常に有難かった。

 『小鍛冶』は足利家代々から刀剣の鑑定を司る徳阿弥家の当代に持ち込まれた、あまりにも精緻な贋物の物語。
 実は私、あるきっかけから刀剣に対して好奇心に近い興味を持っている。一度、名刀と呼ばれる一品に謁見して究極の美から矜持を得たいとも思っているのだが、いやはや浅田次郎の筆致によってますますその意を強くした。
 日本刀に纏わる様々な歴史的な薀蓄もさることながら、反り、身幅、重ね、切っ先、そして刃文に至るまで、官能美ともいえる刀身の描写力は実に見事であり、読みながら想像力の限界まで引き出されたようで軽い眩暈を起こしそうになる。
 おそらく沙高樓の客も読者も、精三が鍛えた甲斐江の贋物を眼前に置きたくなったことだろう。
 もちろん小説である以上、ストーリーは必要なのだが、正直いえば刀剣そのものの濃密な描写の前に、徳阿弥家の跡目に纏わる因縁話がとってつけたようで、私には蛇足に思えた。これは物語主義を自認する者として本当に珍しいことでもある。
 しかしこのエピソードを読み返してみて、最後に能の『小鍛冶』に因んで伏見稲荷の子狐を匂わせて一気に幕を引いた浅田次郎は、実に上手に逃げて見せたのではないか。
 個人的にはこの一作だけで『沙高樓綺譚』は読む価値ありと思う次第だ。

 精神科の教授がストーカーの女性の執念を語る『糸電話』は、文量も少なく、一話完結の30分ラジオドラマという趣きか。
 人生の節目に姿を現す凛という小学校時代の同級生。それは偶然か、意図されたものなのかという話になっているが、これをミステリーだと思ってしまうとやや肩透かしを食う。私はむしろ時代に翻弄されて貴族や財閥たちが斜陽していった時代の物語として読んだ。
 そう、実は沙高樓で語られる話の結末は謎のまま放置され、綺麗に腑に落ちる話などはひとつもないので、読者は聴衆たち同様に一度肩透かしを食らうことになる。
 浅田次郎が描きたかったものとはストーリーの起承転結などではなく、薄明るいシャンデリアの下、円卓の銀燭台に乗せた蝋燭が揺れる中で語られる濃密な空気感だったと思うのだ。

 『活動寫眞の女』の興奮よもう一度と思しき『立花新兵衛只今罷越候』。おそらく京都の撮影所へのオマージュを書かせたら浅田次郎の右に出る者はいないのではないか。
 前回は伏見夕霞をネットで検索してしまった私は、懲りずに立花新兵衛で検索してしまった。なぜなら未読であるが『壬生義士伝』の作者であるゆえ、無名の勤皇の志士への造詣が深いはずなので、「もしや」と思ったのだ。
 一種の怪談話には違いないのだろうが、撮影所は活動屋や役者たちが現実のような嘘を一本のフィルムに焼き込ませることに情念を漲らせる異空間であるのだから、人知を超えた出来事が起こっても不思議ではない。そんな空気感が、この作品からは芳醇に漂っている。またそんな風に思わせるのが浅田次郎の筆致だ。
 とりわけ荒天により撮影が順延されるくだりを含め、映画撮影の進行は恐ろしいほどリアルな迫力があり、池田屋に近藤勇が乗り込んでくる場面などは小説の中の劇中劇としても手に汗を握ってしまうほどではないか。
 リアルというのは物語がリアルなのではなく、いかにも撮影所を知り尽くした撮影監督ならばこう話すのではないかというリアルさに他ならない。これは実に凄いことなのではないだろうか。

 沙高樓の聴衆たちがそれぞれの語り部に魅入られるように耳を研ぎ澄ますのだとしても、そこに必ず共感が生まれるとは限らない。理解不能なことを受け入れることで慄然となることもある。
 南軽井沢の庭園を偏愛する老婆が語り部をつとめる『百年の庭』は、結末に殺人を匂わすという点において本編中でもっとも恐ろしく、ある意味ではもっともミステリーらしいインパクトを残す物語だろう。
 ここでは庭園に対する浅田次郎の造形の深さもさることながら、ひとつの思いにとり憑かれた人間の業、執念の凄まじさが聴衆を圧倒してしまうのだが、この物語だけが正直、全体から浮いていたようにも思ったのは、語りが老婆の微笑みで結ばれていたことで、沙高樓自体の語り部である「私」の感想が入りこめる余地を与えられなかったことにあるのではないか。

 やくざの大親分が語り部をつとめる『雨の世の刺客』は単純に面白かった。
 浅田次郎という作家の特色を語るほど、私は浅田次郎を読んでいないが、映像化された作品群などを眺めると、この作家が極道や任侠の世界を得意としていることはわかる。『椿山課長の七日間』でも転生したやくざの親分や落ちこぼれのヒットマンの話などが生き生きと描写されていた。
 『沙高樓綺譚』という全体ではなく、この話だけで脚本を起こしても良くできたやくざ映画になるのではないか。鉄砲玉の青春譜としてもユーモアもあり、それなりに泣かせどころもある。そして何よりも先の撮影監督同様にやくざの親分の語りというリアルさもある。
 ただこの親分への感想で「私」に「彼こそが真人間だ」の述べさせたのは浅田次郎の勇み足だったのではないか。解説はともかくとして感想は読者に委ねるべきだった。

 それにしても、こういう小説は同世代や年下の作家の手によるものではなく、私よりも長く生きている、人生経験豊富な作家に読書時間を委ねるに限ると思った。30~40代の作家に人生を語られると、どうしても鼻白みながら粗探しに終始してしまいそうな気がするからだ。その点、雀師としてもあの黒川博行も一目置く浅田次郎ならば申し分がなかったといえるのではないか。
 今後、この『読書道』に浅田次郎が登場するのかどうかはわからない。しかしこうして本を読むことを続けていくならば、私よりもずっと年下の作家の作品に触れることはますます多くなるのだろうから、若い感性にあてられて疲れを感じたとき、浅田次郎の大人の佇まいに落ち着かせてもらいたい気分になることもあるかもしれない。
 この人に癒しを求めることが正解なのかどうかはわからないが。


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