◎歌謡曲の時代

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◎歌謡曲の時代 −歌もよう人もよう−
阿久 悠
新潮文庫


 【今も人々が口ずさむ、五千を超すヒット曲を作詞し、平成十九年に世を去った阿久悠。稀代の作詞家が、歌手との思い出、創作秘話、移り行く時代を、鋭く、暖かな眼差しで描く。歌謡曲に想いを託し、日本人へのメッセージを綴ったエッセー。】

 阿久悠はこの『歌謡曲の時代』というエッセーの序章で語る。
“昭和と平成の間に歌の違いがあるとするなら、昭和が世間を語ったのに、平成では自分だけを語っているということである。それを「私の時代」と言うのかもしれないが、ぼくは、「私を超えた時代」の昭和の歌の方が面白いし、愛するということである。”
 このエッセーで阿久悠が語りたかったことのすべてがこの序文に集約されている。曰く、“歌謡曲は時代を食って巨大化する妖怪である”ということ。
 たまたまの偶然というか、この本を読み終わった直後の僥倖かと思ったのは、偶然つけっぱなしにしていたBS放送でいきなり「沢田研二コンサート〜人間60年ジュリー祭り〜」という昨年暮れの東京ドームでのLIVEが放送されたこと。
 阿久悠にとっても歌謡曲にとっても、沢田研二は時代を象徴的に具現した怪物だったと思うのだが、還暦を迎えて風貌を崩したジュリーは、まさに平成の世に迷い込んだ昭和の妖怪のようだった。ビジュアル的にはかなりショッキングではあったが、阿久悠とのコンビで放った「時の過ぎゆくままに」「勝手にしやがれ」「カサブランカ・ダンディ」を聴いているうちに次第に引き込まれていったのも事実で、なるほど沢田研二の歌唱の力量でもあるが、これが「私」ではなく不特定多数の「世間」に発信された歌謡曲そのものの強さなのだと思った。あの頃の阿久悠は沢田研二というスターを使って、仮想ハリウッドを表現する自由に酔いしれていたのだという。
 確かに歌謡曲は昭和の終わりとともに衰退した。いや歌がマーケットで流通している現実は少しも違わないのだから、正確にいえば、昔ながらの歌謡曲的なものの売り方が変ったということだろう。価値多様化時代にあって音楽のマーケットが公から私にシフトした以上は、商品もコンシューマーに合わせていくのは当然のことで、結果、巷の喧騒の中に紛れていた音楽は、聴き手個々が持つ携帯デジタルプレーヤーに格納されて、各々の耳で鳴り続けているわけである。だからテレビの前で一緒に踊れたピンクレディの振り付けは不要になってしまったということかもしれない。

 などと、読書感想文に歌謡曲論を展開するのは筋が違ったのかもしれない。
 実家には阿久悠が和田誠と共著した『A面B面 作詞・レコード・日本人』という対談本があって、それを愛読書としていたので、作詞家としての阿久悠の才能は十分承知しているつもりではある。才能についてよくいわれているのが、ピンク・レディや「ピンポンパン体操」から都はるみ、八代亜紀まで書き分ける幅の広さだということであり、この本に取りあげられた99編の詞のうち大半は知っている(歌える)こともあって、本当はこのレヴューを借りて、阿久悠の作詞した歌についていろいろと書きたいところでもあるのだが、それではこのエッセイを著した阿久悠に失礼のような気もする。

 阿久悠はこの『歌謡曲の時代』とエッセイに “何年か前のヒット曲をタイトルとして、今同じタイトルで作詞を求められたら、何を考え、どう書くであろうか” という原則を設け、そこで昭和と平成の時代比較論を展開し、“情緒やモラルの変化を探る” ことを意図したという。
 正直にいえば、このエッセイの構成が阿久悠の詞ほどに成功しているとは思えなかったのは、すでに逝去してしまった大作詞家の現在を今物語として読みきれなかったことが大きいのではないかと思う。例えば森田公一とトップギャランのために作詞した「人間はひとりの方がいい」という(私の大好きな)歌がテーマとなっている項では、“孤独を好んでひとりの方がいいといっているわけではない。失う悲しみとか、裏切るせつなさが、死ぬよりつらいと感じているから、失いたくない、裏切りたくないと思っているのである”という創作の意図に対して、“今、日々人間性の喪失した事件ばかりを聞かされ〜”という文脈でしかアプローチできない閉塞感があり、それが阿久悠の切実な思いであるとしても時代論にまで昇華しえているのかは疑問に思った。

 私はこの『歌謡曲の時代 −歌もよう人もよう』というエッセイを稀代の作詞家の遺書として読みたがっていたのかもしれない。


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