◎最悪

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◎最 悪
奥田英朗
講談社文庫


 文庫本650ページのボリュームも重かったが、内容も重かった。いやエンターティメントなのでテーマが重いわけでも語り口が重いわけでもないのだが、そこに描かれている登場人物たちの抱える問題がとにかく重かった。個人的にどうも今年は日々が重苦しと感じることが多く、タフな我慢を強いられた読書だった。
 もちろん『最悪』というタイトルの小説を手に取ったのだからハッピーでハートフルな物語を読むつもりは毛頭なかった。ようやく事件が発生する500ページ過ぎまで、主役の三人が“最悪”まで詰まれていくのだから、その過程を丁寧に積み重ねる奥田英朗の作業と対峙しながら、何だか作家との辛抱比べに付き合わされている錯覚に陥ってしまった。

 【不況にあえぐ鉄工所社長の川谷は、近隣との軋轢や、取引先の無理な頼みに頭を抱えていた。銀行員のみどりは、家庭の問題やセクハラに悩んでいた。和也は、トルエンを巡ってヤクザに弱みを握られた。無縁だった三人の人生が交差した時、運命は加速度をつけて転がり始める。】

 とくに、小さな町工場を経営する川谷信次郎が“最悪”へと追い込まれていくエピソードには何度となく胃が締めつけられた。
 不良品の発生、コミュニケーションの難しい従業員、近所の騒音のクレーム、我儘な娘の進路、傲慢な銀行融資判断など、最初はどれも日常の些細なことだと思われていたものが巨大な悪意に操られるように膨らんでいく。善良な信次郎の優柔不断と楽観が読んでいて痛い。「その話は断れ」「もっと慎重に」「人が良いのも大概にせえ」と何度心の中で呟いたことか。横山秀夫ならば全過程を20行で納得させてしまうようなことを奥田英朗は膨大な文字量で綴っていく。その筆力が生半可ではない。生半可ではないので、本を投げ出すことも出来ない。
 経営者でなくとも多くの日本人のサラリーマンは川谷に言い知れぬ憎悪を抱いていくはずだ。しかし同時に共感があるのだから始末に悪い。そう川谷に相次いで降りかかる火の粉を読者は自分に置き換え、身につまされながらも憎んでいく。要は川谷という存在が何ともリアルなのだ。
 だから交互に描かれる、藤崎みどりと野村和也にエピソードが移ると、共感が薄い分だけ救われる思いがする。

 都市銀行の業績芳しくない支店に勤める藤崎みどりは、新歓キャンプで支店長のセクハラを受ける。いやセクハラというよりも殆どレイプ未遂という事態だ。ただでさえ銀行という乾いた人間関係の中でストレスを鬱積させていたみどりは、ますます追い詰められていくのだが、奥田英朗が銀行業務の空虚さを詳細に描くほど、その構造の虚妄性に興味が移ってしまった。本人からすればとんでもないストレスなのだろうが、個人的には一時でも川谷のリアルから逃れられるだけでも有難くもあった。

 野村和也は家族の崩壊を機にグレて上京した二十歳そこそこの若者だ。パチンコ通いの日々の中でたまにカツアゲをやり、倉庫からトルエンを盗んでカネにするという生活を送っている。将来への夢も希望もなく、さりとてやくざの盃をもらって名を売るほどの野心もない。年の離れた場末のホステスと寝んごろになっている状況に甘んじようとする典型的なチンピラ以前の「燻り」だ。ふとしたこで知り合った藤崎みどりの妹、めぐみと組んでやくざに追われながら悪事を重ねていく疾走感もあって、「行き場を失った青春」というひと昔前の日活ニューアクションの趣で、これもリアルに身につまされることなく読み物として割り切れる分だけマシだった。

 要はこのまったく接点のなかった三人の“最悪”な人生がクライマックスで交錯するという趣向になる。巻末の池上冬樹の解説によると、こういう趣向は映画的であるとのことだが、私が真っ先に思い浮かべたのは解説で紹介されているクエンティン・タランティーノの『レザボア・ドックス』ではなく、船戸与一の『砂のクロニクル』だった。それぞれの主観で物語を語らせるために、少し時間軸を戻す手法も近々では伊坂幸太郎が得意としており、まったく『最悪』がとび切り斬新だとは思わなかったが、個人的にはこのモチーフで小説まがいのものを書いたことがあるくらい、好きな設定ではあるのだ。
 むしろこの三人が銀行強盗事件で絡み、逃亡劇へとなっていく過程でそれぞれの“最悪”を批判したり反芻したりする過程が舞台劇を見るようで面白かった。
 三人ともそれまで抱えていた“最悪”の地点にすら戻れないという“超最悪の”の状況になって、何とか妥協できる接点を探っていく。もともと考えの甘さと人の良さに、打算と妥協が加味されたことで、かかる“最悪”を招いた者たちだ。それぞれの主張は火花を散らしつつも微妙にズレているのが何とも面白い。

 三人が銀行で集結したときに「なるほどこういうことになるのか」という興奮があるわけでもなく、最後の最後に一発大逆転で“最悪”から脱出してみせる快感にも乏しい。カタルシスのないままに、結局はなるようになっていくしかない終わり方だった。
 それでも不思議なことにページを畳んだとき、何故だか救われた気がしていた。
 結局、“最悪”であるとの認識はその時々の判断でしかなく、何かと比べているに過ぎないということなのか。だから本当の“最悪”に堕ちた時にそれまでの最悪など最悪でもなんでもなかったことに気づかされる。その一方で、最後は開き直るとこまで行けばどうにかなるのだという妙な矜持を得たような気がする。
 そう、この物語のタイトルはあくまでも“最悪”であって、“破滅”ではないのだから。


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