◎岸和田少年愚連隊

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◎岸和田少年愚連隊
中場利一
幻冬舎文庫


 およそ十年ぶりの再読だ。全米アメリカンプロレスの観戦サーキットに旅立つ際に職場の同僚から渡されたのが中場利一の自伝的小説『岸和田少年愚連隊』『同・血煙り純情篇』『同・望郷篇』の新刊本3冊だった。移動に次ぐ移動の旅なのでハードカヴァー3冊はさすがに量ばるので断りたかったのだが、その同僚があまりの熱意で薦めてくるのに根負けして、仕方なくトランクに放り込むことになった。
 以来、デンバーからテキサスのアマリロ、ニューヨークを経てエリー湖近くのクリーブランドからウエストヴァージニアにシカゴ、サンフランシスコ経由で帰国という強行ツアーをこの岸和田のごんた達とともにすることとなる。
 十年たった今もつらつら思い出すに、そのときのプロレスの試合よりも飛行機、バス、ホテルの中で読んだ『岸和田少年愚連隊』の方が印象に残るくらいに夢中になっていた。そういう意味では、この本をアメリカくんだりまで携行させたのが良かったのか悪かったのか未だに釈然としない思いがある。
 再読のきっかけは、前回読んだ東野圭吾『あの頃ぼくらはアホでした』の前半部分に大阪の不良中学生の記述があり、優等生が書くヤンキーの逸話にどうしても違和感が残ってしまったというのがあった。現実、男臭いやんちゃ話というものは語り手の技量で面白くもつまらなくもなるものだということを経験則として知っている。とにかく修羅場の程度はともかく、やんちゃ話には不思議な吸引力がある。東野圭吾が悪いというわけではなく、ワルの枠の中からの主観なのか枠外からの俯瞰なのかでリアリティがまったく違ってしまうのは当然としても、武勇伝は伝聞よりも本人談の方が多少のカッコつけと誇張とが相俟ってユーモアが倍化されるということだ。ならば久々にチュンバ、小鉄、ガイラ、サイにカオルちゃんたちを訪ねてみようかと思い再読することにした。

 【金がなくても毎日がなぜか楽しく、肩で風切って歩いていたあの頃。それでいて一歩間違えれば、死んでしまいそうだったり、犯罪者になってしまいそうだったあの頃。どこまでもやり続ける仲間と一緒に、チュンバは少年から少しずつ大人になっていく…。】

 十年の時を経ても面白いものは面白い。全編を縦横無尽に跋扈する不良たちのテンションもぶち切れ具合のボルテージも健在。とくに大阪だから、岸和田だからヤンキーにも凄みがあるとは思わないが、間違いなく大阪弁のリズムが面白さを倍加させている。
 例えば、五十人というとんでもない人数にフクロにされたチュンバが、折られた歯の治療で同級生の母親に診察を受ける場面-----。
「えらいまあ見事にやられたなぁ、歯ええの入れるのやったら早くおいでや。そないほっといたら入れられんようになるで」
「またいつ折れるかわからへんからこのままでええわ」
「アハハハ、血の気が多いからすぐ血が出るなぁ、ちょっとバキュームで血ィぬいたろか」
 この軽妙なやり取りは標準語では絶対に出せない味だ。前半のボウズ頭でキャロルのコンサートに行く場面や、授業中のエロ本騒動などは小ネタもいいところなのだが、大阪弁のリズムで笑いながら読めてしまう。もちろん中場利一の語り口の巧さによるところが大きいのはいうまでもないことなのだが。

 そして、我ながら驚いたのが後半からラストに至るにつれ涙が止まらなくなってしまったこと。
 もともとノスタルジックな青春ものであるため「泣き」の要素はあるのだろうが、十年前にアメリカの大地にあって爆笑することはあっても、涙を流すことなどなかった。三十代半ばだった私が四十の坂を下り始めて一体何が変わって、何を失ってしまったのだろうかと思うと、最後には少々感傷的な読書となってしまった。
 我ながら『岸和田少年愚連隊』でしみじみとしていいのだろうかと苦笑もしてしまうのだが、単純に最後にチュンバと小鉄がお互いの身を案じながら殴り込みに向かう場面にはヒーローものの普遍的なカタルシスがあり、そこに呼応してしまったゆえの涙だったような気もする。
 すべての深刻な状況を豪快に笑い飛ばしてしまう大らかさと、ダチがひとりひとり自分の下から離れていく喪失感こそ青春の宿命だといわんばかりの説得力。ユーモアとアイロニーが融合した青春小説の傑作だと思う。


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