◎小さき者へ

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◎小さき者へ
重松 清
新潮文庫


 意外と週末にのんびりと本を読むことはなく、就寝の枕元で寝入りの寸前までページをめくることも少ない。かつては寝床読書が定番だったが、今は寝るギリギリまでネットをサーフィンしていることが多く、布団に入ったら殆ど即寝の状態だ。
 結局、本を読む時間の大半を職場の昼休みと帰宅電車の中で消化しているので、早い話、仕事の合間か、仕事の余韻を引きずった帰り道に本への欲求を高めているということになる。代償行為という言い方もあるが、やはりどこかで気分を逃避させたいという思いがあるのだろう。

 【お父さんが初めてビートルズを聴いたのは、今のおまえと同じ歳14歳。いつもわかったふりをする大人が許せなかった。どうしてそれを忘れていたのだろう。お父さんがやるべきこと、やってはならないことの答えは、こんなに身近にあったのに…。表題作『小さき者へ』を含む6編の物語。】

 重松清は『口笛吹いて』に次いで2冊目になる。一年半ぶりの読書だ。その時は本を読みながら、ここまで身につまされることもあるのかというぐらいに小説世界と実生活がシンクロした。
 「正直、何度か投げ出したくもなったが、ここから目を逸らすのも私の弱さを上塗りするようでもあり、もはや逃れられないものと腹を決めてページをめくった。」と書きながら、なんてことはない、重松清の力量に一冊目にして圧倒されていたくせに二冊目まで一年半もブランクを置いている。
 その間はひたすら実生活とはシンクロしようがない物語ばかりに逃避していたのだ。この「読書道」にあって自分の人生観や実生活をリアルに狙い打ってくるのは重松清ただひとり。

 この短編集は6編からなるエピソードでまとめられている。どの話も難解な表現はまったくなく、呆れるほどにわかりやすい文体で登場人物たちの複雑な心境を怖いくらいに克明に綴っていく。
 相変わらず、何ゆえにここまで本を読みながら身につまされなければならないのだという思いはあった。しかし語り口の巧さで次々へとページをめくらされてしまう。一編ごとのボリュームはそれほどでもないのだが、とにかく物語に込められた思いの強さで圧倒させてくる。
 基本的に短編は苦手なのだが、これ以上、理想的な文字量はないのではないかと納得させてくれる物語ばかりだった。この文庫本に収められた珠玉の短編を通奏低音として流してしまうには、あまりにも惜しい気がする。

 『海まで』の主人公は、農家の長男として生まれながらも上京した「僕」。
 ひとり暮らしの母親にふたりの孫の顔を見せるための里帰りだったが、老いた母親は幼い次男のミツルを可愛がるばかりで、長男のカズキをあからさまに無視してかかる。「僕」は絶対にカズキの味方をすることに決めるが…。というストーリー。
 重松清の物語の主人公とすべてを「共有」できるわけではないが、常に「共感」とは背中合わせにある。父親という立場で身につまされることはないが、老いた母親との関係では怖いほど思いが一致する。
 故郷に一人で住まわせている母親が会うたびに老いていく現実。都会暮らしの経験しかない妻と子供たち。息子と父親の立場を同じ時間の中で過ごすことの負荷は相当なものなのだが、これはもう時の流れに身を委ねるしかないのか。
 “心配する気持ちと後ろめたさがないまぜになると、なぜだろう、いらだちや腹立たしさに変わってしまう”
 現実がすぐ目の前にありながら、ひと足を踏み込む以前に葛藤にはまり込むのが人間というものなのか。

 『フィッチのイッチ』は、小学四年生の「ぼく」と勝気な転校生の朋美が、ともに両親が離婚し、母子家庭になったという境遇に共感する様子が瑞々しく描かれている。『海まで』の辛らつな語り口には唸りながらも、軽く打ちのめされた気分だった直後に、この何とも可愛らしいエピソードは一服の清涼剤のようでもあった。
 ただ自分の経験則を照らし合わせて共感するばかりが読書ではないと思うのだが、母子家庭で育つか、離婚経験を持つ読者が読んだとしたらまた違った感想になるに違いない。小学生たちの目線で親を語るというのも、重松の家族劇を多角的に捉えようとする意志の一環なのだろう。しかし大前提として親同士の不一致の最大の被害者は子供にある。

 いじめによって心を閉ざし、引きこもる息子へ、自身の思い出を絡めて、読まれることはないに違いない手紙を綴る父親の独白を切々と描く『小さき者へ』。
 表題作だけに、いたたまれなさという点でこの短編集でも群を抜いていたのではないか。仕事で追い詰められ、さらに家庭でも追い詰められる父親。過酷な心情を息子宛の手紙に仮託しながらも重松清は冷徹な筆致で淡々と語っていく。
 人間は誰しも心の脆い部分を自覚しながらも、それを簡単に悟られたくはないと思っている。それがアカの他人ではなく肉親であれば尚更のことだろう。14歳の息子への手紙を書き綴りながら、いつしか14歳の頃の自分と父親との物語に入っていくのだが、共通するキーワードとなるのがビートルズの音楽。いや正確にいえばキーワードというよりも最後の命綱ではないかという深刻さの中で独白が続き、「爪を噛み、顔にはにきびだらけで、わかったふりをする大人が許せなかった」過去の自分と向き合うことで、父親を受け入れていくまでを描く。
 現在進行形の息子との確執の結果はわからないが、とりあえず14歳の自分が父親との共通意識を持ったことで僅かながら解放されていく心。一見、絶望的なエピソードでもそこに救済の余韻を残している。
 重松清は読者に厳しい現実を投げるだけの作家ではない。それが素晴らしい。

 『団旗はためくもとに』は、高校生の「あたし」と、昔から恥ずかしい存在でしかなかった元応援団長の父親との対立を描いている。
 重松清がアプローチした女子高生像がどこまでリアルなのかは知らないが、父親にとって思春期の娘の下から突き上げてくる視線と対峙することは相当にしんどいはずだ。なにしろ相手は感受性の化け物のくせに、冷静に「お父さんはあたしのことが大好きで、結局、あたしのことは怒れない」ことまで確信している。
 あえて、このエピソードの主人公である「あたし」をヒロインと呼ぶとすれば、そのヒロインはエキセントリックな父親に反抗するのが目的のように、自らもエキセントリックな行動をとる。一方で、娘が高校を辞めると告げた途端、思わずビンタが飛ばす父親は、この短編集の中で唯一ヒーローと呼んでいいのかもしれない。ヒロインとヒーローが対決するのだからこの短編集の中で「面白さ」という点では群を抜いていた。
 人を応援することに人生を費やしてきた父親のエールを、胸を張って受け止める「あたし」。父親にとって、なかなか応援のし甲斐のある娘ではないだろうか。

 脱サラして開店させたピザ屋が赤字続きで、遂に閉店に追い込まれる男を描くという、私の経験則上のヤワな記憶を思いっきりくすぐってくれたのが『青あざのトナカイ』。
 たった一年半の一国一城の主。妻や子に惨めな自分の姿を見られたくなくて実家に帰した。しばらく酒におぼれた…。境遇はまるで違うが、商売が立ち行かなくなってくる描写の積み重ねがリアルで、読むのが多少しんどかったものの、「あるある」というシチェーションの連続は面白くもあった。
 決して夢を見た男が夢に敗れる物語でもなければ、挫折から立ち直っていく成功物語でもない。単に浴びるように飲んだ酒が身体から抜けていく過程を描いた話に過ぎないのだが、巧みに実家に帰した妻や商店街の人々を登場させて、物語を膨らましていく。
 この話は重松清のストーリーテラーとしての才能を読むことが出来るのではないか。

 最終エピソードとなった『三月行進曲』は、個人的に久々に草野球がやりたいと常日頃から思い、この夏に夏の甲子園の開会式を観にいくことを計画している私にとって珠玉と呼べる一編となった。
 この物語の主人公は少年野球の監督を引き受けて以来、どうも妻と娘との間がギクシャクしている「僕」。さらに預かった少年たちもそれぞれ問題を抱えていることに悩んだ結果、白い目で見る家族をよそに彼らに甲子園の開会式を見せることを決意する…。というお話。
 高校野球の行進を見せれば、かなりの問題が解決するという「僕」の思い込みを理解する人は少ないだろう。とくに妻や娘にしてみれば、家族旅行を中止にされ、交通費を持ち出しにされるなどは正気の沙汰ではないに違いない。
 このあたりの妻とのやりとりや、次第に自分に甘えてこなくなった娘のことなど、例によって丹念に拾いながらも、主眼としてはキャプテンのヤスノリ、エースのジュン、遊撃手のケイジとのふれあいを描いている。
 今、一番なにを優先するべきか。後悔しないか?いや、するに決まっている。しかし、わかっていることもある。「やらなかった後悔の方が大きい」のだということ。
 私はこのエピソードを良質なスポーツ小説のテイストだと思っている。

 重松清は「文庫版のためのあとがき」で次のように書いている。
 「本書に収めた六編のお話は、どれも急な坂道にたたずむ人たちを主人公にしている。(中略)彼や彼女たちが、坂を下りていたのか上っていたのかは、書き手であるぼく自身もわからない。ただ坂の途中で立ちつくし、途方に暮れてしまった---そのときの体と心の重心の揺れ動くさまを丁寧に描いていこう」

 まさに有言実行。その言葉に微塵の嘘もなかった。


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