◎女たちは二度遊ぶ

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◎女たちは二度遊ぶ
吉田修一
角川文庫


 【本当になんにもしない女だった。炊事、洗濯、掃除はおろか、こちらが注意しないと、三日も風呂に入らないほどだった―。ルーズな女、がらっぱちな女、気前のいい女、よく泣く女、美人なのに、外見とはかけ離れた木造ボロアパートに住む女甘く、ときに苦く哀しい、“日本の美しい女たち”11人の物語。】

 内容は主人公の男がいて、過去に自分の身を通り過ぎた女たちを述懐する。
 それぞれのエピソードに “どしゃぶりの女” “殺したい女” “自己破産の女” “泣かない女” “平日公休の女” “公衆電話の女” “十一人目の女” “夢の女” “CMの女” “ゴシップ雑誌を読む女” “最初の妻” と称された11人の女たちを、ごく短いストーリーで綴られた連作短編形式で語られていく。
 女を主体にして「自分の身を通り過ぎた」という表現にはすぐに肉体関係を想起させるが、男が主体となると本当に通りすがりや片思いというわりと一方通行的な関係が成り立ってくるようで面白い。こういうところに男と女の想いの壁があるのだろうか。
 そこでタイトルの通り過去の女たちが男たちの頭の中で「もう一度遊んで」いく。そして個人の感想かも知れないが、ややエキセントリックな女のひとりひとりにそれぞれ過剰にはならない程度の愛おしさがあり、隣り合わせの未練もある。
 当然のことながら女を描きながら吉田修一は男しか描いていない。
 その程良い感じがいい。まぁ一編ごとの感想を書くのはやめておこうか。

 3冊目の吉田修一だった。吉田修一の発見は個人的には古本屋で3冊250円で投げ売られていたワゴンセールから始まっている。
 最初に『パレード』を読んだとき、これが芥川賞作家の作品であることを知った。
 すでに芥川賞作家に対して発見も何もあったものではないだろうが、評判を聞いたり、書店のポップ広告で名前を知ったわけではないという意味で3冊250円のワゴンで手に取った偶然は私にとっては意味のあることだったように思えたのだ。
 その後で吉田修一原作の『悪人』『横道世之介』は映画化もされ、この『女たちは二度遊ぶ』も映像化されているようだが、多分、最初にワゴンで発見したときよりも吉田修一の名前は格段にアップしたものと思われるが、『パーク・ライフ』で芥川賞、『パレード』で山本周五郎賞と、2002年の時点で吉田修一は純文学と大衆文学で同時受賞という快挙を成し遂げており、今やベストセラー作家へと格段の飛躍を遂げた作家のひとりだろう。こういう人はそうはいないはずだ。
 『パーク・ライフ』を読んだときの感想で『パレード』について触れている。
 「それは『パレード』で4LDKに住む若い男女の日常に永遠と閉じていく宇宙を感じさせたように、吉田修一には拡散しながら収縮していく世界観があるのかもしれない。そんな世界観が日常描写の中にふと割り込んでくるものだから緊張感があって読書を楽しいものにしてくれる」。
 私は吉田修一の綴る日常描写にふと得体の知れないものを感じて、その不穏さを楽しみながら読んでいたのだろう。
 平穏なのだけど、決して無事には終わらない緊張感。それは4LDKの部屋をシェアする男女の間にあったり、平日の日比谷公園の牧歌的な風景の中に潜んで、じっと何かを見据えているようなただならぬリアルな空気とでもいうのだろうか。だから私には『パーク・ライフ』と『パレード』は異形の双子のように思えたものだ。それを称して「中間小説」といってしまったら身も蓋もないような気がするが・・・。

 『女たちは二度遊ぶ』は、派手さはないが一篇20ページ足らずの短編は非常に読みやすく、その読みやすさゆえに私にとっては完全にエンタティーメント小説だった。


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