◎大博打

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◎大博打
黒川博行
新潮文庫


 8月になった。この夏は黒川博行とともに過ごしているようなもの。一冊読み終えら、ここに感想を書くというのはお約束だが、なにぶん通勤の途中、食中・食後のコーヒー、外回りの電車内などで文庫本を開くことが習慣のようになってしまったため、読み終えた途端に手持ち無沙汰となるのがなんとも困った。自宅に帰れば通販でまとめ買いした黒川作品が待機しているのだが、その手持ち無沙汰と次の小説に対する欲求に耐えられず、古書店に寄って未購入のタイトルを買って読み始めてしまう。そのうち読むのは楽しい、書くのは苦痛だという状態になって、これを書いているときには既に1〜2冊は読み終わっている状況が続いている。
 この『大博打』も通販で求めていなかったのを幸いに、外回りの最中に古書店で見つけて読み始めていた。『切断』を読み終えた直後で、ようやく『絵が殺した』の感想文に取り掛かかろうかというときで、さすがに濫読が過ぎたような気がしている。読書を楽しむよりも短期間のうちに貪り読むことのほうが目的となりつつあった。ひとつひとつの作品をきちんと消化してから次の作品に取り掛かるように努めなければならない。

 【無茶苦茶な誘拐事件だった。身代金が時価32億円の金塊二トン。受け渡しはどうするのか、大阪府警は驚愕するが、犯行計画は緻密だった。大阪湾に繋留中の漁船に金塊を積み、オートジャイロをセットしろという。金塊を積み無人の漁船が闇をゆく。】

 『二度のお別れ』『切断』、さらに未読の『迅雷』と並ぶ黒川博行十八番(?)の誘拐ものだ。ターゲットは格安チケット業で成りあがった男の父親。身代金は32億円相当の金塊2トン。追跡するのは大阪府警捜査一課のおなじみ深町班の面々。かなり大仕掛けな作品となったが、誘拐ものといえば中学だか高校の時に読んだ天藤真の『大誘拐』という傑作が忘れられず、後に岡本喜八が映画化したものの、小説があまりに面白すぎたので映画館に行く気になれなかったことを思い出す。高校時代には西村寿行の『犬笛』も夢中で読んだ。さらに「読書道」を開始して以来、岡嶋二人『99%の誘拐』、歌野晶午『世界の終わり、あるいは始まり』があり、たまたまなのかも知れないが誘拐ものにそれほど外れはないような気がする。
 誘拐ものの最大の見せ場は身代金の受け渡し場面にあるのはいうまでもなく、そこに作家たちは様々なアイデアを凝らす。しかし犯人と被害者、犯人と警察との人間ドラマが薄いとシステマチックなアイデア先行だけの小説になってしまう。
 黒川は人間をしっかりと描ける作家だ。それも心象描写を延々と綴っていくのではなく、会話や台詞で使われる言葉を精査しながら、そこから醸される登場人物の心情を読ませることにかけては天下一品だともいえる。
 前回の『切断』は黒川作品には珍しく三人称で進行させていたことで、どの登場人物にも過度な肩入れをせずに、目線を引きながら描くことで独特の質感を醸すことに成功していたのだが、『大博打』では一転して刑事である「私」と、犯人である「おれ」という一人称の二重構造をとり、追う者と追われる者のドラマをほぼ同等の寄りで描くことで、人間臭さを物語に反映させようとしたのではないかと思われる。
 ここまで黒川を読んできて確信したのは、彼が稀代のストーリーテラーであるということなのだが、ネタバレを怖れずに書くと、誘拐された人間が探偵となって謎の一端を解き明かすという離れ業にも挑戦しており、ひとつひとつのシークエンスにしっかりと仕事を施しながら、身代金強奪のトリックと、追う者と追われる者の立場を目まぐるしく入れ替えながら、例によって大阪弁のテンポで一気にラストまで読ませてくれた。

 難をいえば、事件の渦中から物語を始めて、発端まで戻す手法にあまり意味を見出せなかったことと、「私」と「おれ」という一人称の二重構造が、どこかの場面で交錯すれば劇的だったのではないかという欲求が残ってしまったことか。
 ただ濫読の流れで一気に読んで(読まされて)しまったので、「おれ」と老人が次第に心を通わせていく空気感までじっくりと味わったとはいい難く、感想を書くために読み返してみて、ある種の人情ものになっていることに気づいたという情けない読書だったことも白状しておこう。


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