◎口笛吹いて

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◎口笛吹いて
重松 清
文春文庫


 逃避行為しての読書というのはアリだったのだなと、つくづく思った。遺跡発掘現場から死体がいくつ出てこようが、痛みまでは感じない。それは経験的に身内にそのような禍が及んだ事例がないからだ。
 知らないことで読み手は心置きなくエンタティメントに身をおくことができる。近しい人に殺人事件の被害者がいれば、私はミステリーなど気軽に手にとらないだろう。
 重松清のこの五編からなる短編集と突然出会ったのも何かの縁なのか、今から思えば最初にページをめくった瞬間から胸騒ぎが生じていた。案の定といったら変だが、現実、月曜日に出勤したら職場でとんでもないことが起きていた。ことの詳しい話はさておき、こうして重松清『口笛吹いて』は逃避行為しての読書にはならず、現実世界とシンクロするようなリアルな読書体験となってしまった。
 いや職場でのどうのこうのを無しとしても相当に身につまされる小説ではある。正直、何度か投げ出したくもなったが、ここから目を逸らすのも私の弱さを上塗りするようでもあり、もはや逃れられないものと腹を決めてページをめくった。

 【偶然再会した少年の頃のヒーローは、その後、負けつづけの人生を歩んでいた。もう一度、口笛の吹き方を教えてくれたあの頃のように胸を張って笑って欲しい―。家庭に職場に重荷を抱え、もう若くない日々を必死に生きる人々を描く五篇を収録。】

 男女の間柄とは別の次元で、慕ってくれた者を裏切っていく局面に何度か立たされたことがある。子供の頃の親分子分みたいな関係ならばまだしも、もともと社会に出てからの先輩後輩という関係にはいつか綻びを生む出来事が待ってものなのかもしれない。
 慕われれば可愛い奴だと思うし、期待には応えなければならないとも思う。しかし過度の期待は迷惑なことでもあるし、失望させたときの居住まいの悪さたるや、たまったものではない。勝手に期待しておいてなんて身勝手な奴だと思ったことある。
 私ごときレベルでもそうなのだから、表題の『口笛を吹いて』のジュンペーと晋さんの関係や、『かたつむり疾走』の浩樹と父親、『春になれば』の臨時教師と生徒たちの立場ともなるともっと深刻。そこから逃げて無感動になってしまうと『タンタン』の先生のように空気みたいな存在になれるのかもしれない。
 期待される方は常に何やら試されているような気分なる。試され、値踏みされた結果として慕われていた者から「負け組」のレッテルを貼られることの残酷。過去から必死で逃れながら、人生の大半を負け続けた挙句に「昔はそんなじゃなかったじゃないですか」といわれる恐怖。
 しかし社会の歯車になることを本能的に嫌う若者世代と、歯車からこぼれないように必死になる実年世代との葛藤というのは普遍的な対立軸であり、そんな普遍を重松清は決してこの連作で描こうとしているわけではない。
 『かたつむり疾走』で「オレさぁ、負けた親父に世話になるほどガキじゃないもん」と言い放つ浩樹。それを言い放つことそのものがガキであっても、浩樹はそれを認めてしまうことの怖さを本能的に知っているからこそ、父親への軽蔑という形で表現されるという心理の複雑さ。

 『口笛吹いて』は人生に費やされる膨大で、あっけない時間の揺らめきの中で、成長することで失っていくものと、そのことを無意識のうちに実感してしまう若い世代が共有する「納得と抗い」。そこに重松清はこの連作のテーマを集約させてみたのではないだろうか。
 その浩樹の父親は四十六歳。エリート社員から子会社の倉庫勤務にリストラされても背広とネクタイ姿で出勤し、最寄の駅で作業服に着替えている。浩樹にいわせれば「カッコつけて、ビビって、負けたくせにいつも強がって、張り切って生きるふりをして、定年まで残り数十年、敗戦処理で過ごす。サイテーだ。どうしようもない」となる。
 「勝ち組」「負け組」という言葉を大人たちは否定するが、高校生には敏感で深刻な問題なのだろう。しかし四十六歳で息子から「負け組」のレッテルを貼られる父親がいるとするならば、同い年で家族を養うということすらも放棄している私は「勝ち負け」の舞台にすら上がっていない。
 
 重松清『口笛吹いて』は胃をキリキリさせながら、胸をドキドキさせながら、共有の資格のないままに共感しながら読了した小説だった。とにかく一人称による語り口の上手さには舌を巻く。


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