◎共喰い

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◎共喰い
田中慎弥
「文藝春秋」三月特別号


 「シャーリー・マクレーンが『私がもらって当然だと思う』と言ったそうですが、だいたいそんな感じ」「断ったりして気の弱い委員の方が倒れたりしたら、都政が混乱するので。都知事閣下と東京都民各位のために、もらっといてやる」と芥川賞授賞式での発言が話題となった田中慎弥だったが、何よりも神経質そうな佇まいで、どこか怯えていているような雰囲気だったのが印象に残っている。
 とにもかくにも芥川賞同時受賞だった円城塔『道化師の蝶』の読了に一ヶ月かかったことのまるで意趣返しのように田中慎弥『共喰い』は一日で読んでしまった。

 【昭和63年。17歳の遠馬は、怪しげな仕事をしている父とその愛人・琴子さんの三人で川辺の町に暮らしていた。別れた母も近くに住んでおり、川で釣ったウナギを母にさばいてもらう距離にいる。日常的に父の乱暴な性交場面を目の当たりにして、嫌悪感を募らせながらも、自分にも父の血が流れていることを感じている・・・。】

 読み終えて思ったのは、純文学と大衆文学との差異などあるものかという持論のよき傍証となる作品だったということ。
 そもそもそんなに目新しい題材ではないし、中上健次の諸作品など過去に似たような小説はあった。17歳の青春のひとコマを描くときに、浮遊する若者の都会の性を描くのではなく、地方に土着した性を描いたということに対する評価があったのだが、舞台としているのは昭和63年。現在ではなく過去のノスタルジーに逃げているのは大いに不満だった。
 一見して突拍子もない人物造形も終盤の悲惨な事件も、すべて「昔、田舎で起きたことじゃから仕方がない」という都合の良い納得を読者に抱かせてしまう。
 もっと下世話な話を書いてしまうと、土着にまみれたセックスを描いたとしても、その書き手である田中慎弥のあの神経質そうな佇まいを見てしまったあとでは興ざめも甚だしい気がした。

 不満だったとはいってもこの作品にはある種の力強い「匂い」があることは認めざるを得ない。例えそれが魚の腐ったドブ川の臭気であってもだ。
 17歳の遠馬が、エキセントリックな父親を息子が乗り越えていく話ではあっても、決着をつけたのは母親の仁子さんだったし、その母親を含めて父親の愛人で、子供を身ごもりながら町を出ていく琴子さんや、父に犯されながらも憑物が落ちたみたいになっている女子高生の千種など、女たちが伸び伸びとしっかりと土着して見せている潔さが強調されている。
 遠馬はそんな父親と女たちの周辺をうろついているだけでしかなく、そう思うと、父親への敵愾心を抱きながらも、どこかで同化していくことに悶々としている17歳の少年を過去の田舎町の風土でスポイルしながら、結局は女たちの強さに打ちのめされるという通俗で終わってしまった作品ということになってしまうのだろうか。
 ついでに通俗をいえば、延々と描写される川で釣ったうなぎを解体する場面に飛び散る血と、父と子の血、最後に何故か生理が戻ってきた母親の血など、まさに血は水よりも濃しというモチーフがあるのかもしれない。

 『道化師の蝶』と比べるとはるかに読みやすいのだが、それが通俗という意味で読みやすかったのであれば、芥川賞受賞作という冠は限りなく邪魔だったような気がした。  

 

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