◎人狼城の恐怖 第四部

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◎人狼城の恐怖 第四部=完結編 
二階堂黎人
講談社文庫


 【人狼城殺人事件の怪異に満ちた謎のすべてが、名探偵・二階堂蘭子の冷徹な論理によってついに解き明かされる。死屍累々たる惨劇の舞台《人狼城》で、蘭子を迎えた真犯人とは?その想像を絶する殺人動機とは?そして不可能を可能ならしめた驚天動地の大トリックとは!?】

 『人狼城の恐怖』第一部の文庫本裏表紙には“全四部、四千枚を超える本格推理小説の大傑作!”なる惹句が記されていた。そしてようやく“本格推理小説の金字塔、華麗なる完結!”と結ばれた第四部を読み終える。結局ひと月以上かかってしまった。
 確かに“驚天動地の大トリック”だったと思う。当然これを現実に実践するとなると途方もないことになってしまうが、創作の中でさえ、私が今までに読んだミステリーの中でも最大の大仕掛けだといってもいい。
 国境の深い渓谷を挟んで向かい合うドイツ側の銀の狼城、フランス側の青の狼城という双子の城を擁する「人狼城」。それぞれの物語だけでも上下巻に分けてもよいボリュームで描かれた、おびただしい流血の惨禍。ほぼ同じことが繰り返される大量殺人劇の第一部と第二部で読ませて、日本人の女子大生探偵に深遠なる事件の謎を解決させる。一編の推理小説の中でここまでやりきった二階堂黎人の冒険心は大いに賞賛を浴びるべきで、そう思うことについて一点の曇りもない。

 ところが分厚い文庫本4冊を目の前に積み上げてみると、この高さ分すべての世界観を把握できたものか今ひとつ実感がない。これはどうしたことだろうか。
 どうも私が『人狼城の恐怖』の読破に要したひと月余りの時間は、物語に溶け込んでいた時間というよりも、膨大な文字量を日割りした物理的な時間に過ぎなかったのではないかという気がしているのだ。
 それは本格推理ものであったとしても、トリックの構築より物語性と登場人物の心情描写を重視してしまう私の読み方のせいなのかもしれない。このことは例えば「本格ミステリ」の好事家たちのレビューを読んでいても常に違和感を覚えるところなのだが、私には「犯人あて」「密室による不可能犯罪」「アリバイ」といった本格の醍醐味的要素自体は推理クイズか数学の設問に過ぎないとしか思えず、それを読書時間の根幹に据えるという発想を持つことが出来ない。「人生は有限」という二階堂蘭子流の台詞を借りれば、発想されたトリックの背景や、そこに連結される物語に深みがないものに対して、膨大な時間をかけることにどれだけの意味があるのだろうかと思う。
 もちろん本格ファンには作家が編み出したトリックに、ある種の哲学を見出してそこに心酔することも出来るのだろう。しかし驚愕のトリックそのものの話ならば、ざっと内容を聞いただけでも十分に驚けるのではないか。
 二階堂黎人『人狼城の恐怖』がそういったトリックだけを読者に提示して、「さあ解決してみろ」などという無機質な小説だったとはいわない。とくに第一部、第二部にはドラマ性、心情描写にも十分に腐心し、かなりの力感を込めて舞台の荘厳な背景を完成させたのだということは伝わってきたし、そのことで豊潤な読書時間をもたらせてくれたことは間違いない。
 しかし、この小説を『第一部-ドイツ編』『第二部-フランス編』を“前編”。『第三部-探偵編』『第四部-完結編』を“後編”といった具合にさらに二分化したとき、後編から一気に肌触りが悪くなり、そこにフラストレーションを禁じえなかったことも間違いなかったと思う。とにかく壮大だと思わせた前編の世界観が後編で一気に矮小化してしまったのではないかと思うのだ。

 私は前項の「探偵編」の感想で、それは二階堂蘭子という女子大生探偵のキャラクター造形に問題があるのではないかと書き、それは好き嫌いの話なので横に置いておくとしても、主人公がエラリー・クイーン、ディクスン・カー、アガサ・クリスティ、フィロ・ヴァンスの諸作を引用し、薀蓄話に話を傾けることにはどうしても抵抗を覚えてしまう。
 探偵小説の中で過去の探偵小説のレビューを聞かされる必然性も疑問だが、ストーリーの進行を止めてまでもそれをやる神経が解せないのだ。そんなものはミステリーサークルの研究論文に書けば良いのではないか。クエンティン・タランティーノが映画の中で自身のお気に入り映画のオマージュを面白く見せられるのは、そこにプロの手腕があるからであり、どうも二階堂黎人が同じことをやると途端に文章が稚拙になり、アマチュア臭くなるから困ってしまう。そうなるとこの作家が果たして「書ける」作家だったのかどうなのかという疑いも生じてしまうのだ。
 人智を越えた人狼は実在していたと余韻で匂わせるあたりの姑息感は、いかにも素人がやりそうなことではあるし、事件解決後の蘭子の顛末などは蛇足以外の何ものでもない。
 とにかく“前編”と“後編”の書き味の乖離はあまりにも凄まじいと思った。前編で提示した膨大な質量の謎と伏線。それを次々と回収していく後編。それ自体は鮮やかであったのかもしれないが、ストーリーの展開としてはどうだったのか。
 小説家に対して大変失礼な話だが、正直いうと前編だけ読んで、後編の解答編は口頭で聞かされても『人狼城の恐怖』という小説の印象はそれほど変わらなかったという気がする。むしろ、その方が二階堂蘭子というキャラクターへの嫌悪感や、義兄という設定の叙述者である二階堂黎人の鼻につく大袈裟なリアクションにフラストレーションを溜めることなく純粋に人狼城のトリック、プロットに感心できたのではないかと思う。
 意地の悪い書き方だが、それほどトリックは驚くべきものだったという証左として許してもらいたい。
 
 こうして綾辻行人、法月綸太郎、我孫子武丸、二階堂黎人と「新本格」の中枢作家を読んできて思ったのは、それぞれの作品の上梓時期を考慮したとしても文章のどこかにアマチュア臭さがあるということ。何かの研究論文ではないかという難解な言い回しが出てくるかと思えば、日常会話や心情描写がひどく平板であり、総じてプロの作家としての安定感に欠ける傾向があるのではないか。どうも私が『人狼城の恐怖』という稀有な超大作を読み終えたとき、分厚い文庫本4冊を積み上げながら高さ分の世界観を実感できないでいる所以がそこにありそうな気がする。
 今後、二階堂黎人の小説を読むかどうかはわからないにしても、少なくとも二階堂蘭子ものを読むことはないだろう。


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