◎キッチン

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◎キッチン
吉本ばなな
福武文庫


 以前、ちょっとした酔狂で田口ランディ、唯川恵、江國香織など馴染みのない女流作家の著作を続けて読んだ時期があった。実はそのときに吉本ばななのエッセイ本も手にとって、半分ほど読んでみたのだが、薄い文庫版であるにもかかわらず、どうにも我慢できずに挫折したことがある。今思えば、あれは間違いなく本のチョイスが悪かった。
 未知の人気作家と対峙するのだから初端は気軽なものを選んでみたものの、あれは吉本ばななのファンのためだけの緩めの『徒然草』みたいなもので、今ならブログに軽く書かれているようなものを、わざわざ活字で読んでしまったということになる。
 結果、私の吉本ばななへのイメージは最悪のものになっていた。今回、懲りもせず手にとってしまったのも、殆ど偶然みたいなものだ。
 もし最初に手にしたのが軽いエッセイなどではなく、この『キッチン』だったとしたら、吉本ばななという作家を衝撃的なものとして捉えていたのではないだろうか。イメージは一変した。『キッチン』は傑作である。

 【私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う―。唯一の肉親であった祖母を亡くし、祖母と仲の良かった雄一とその母(実は父親)の家に同居することになったみかげ。日々の暮らしの中、何気ない二人の優しさに彼女は孤独な心を和ませていく…。】

 そうはいっても、冒頭から数ページまでのとっつきにくさといったらなかった。
 不思議少女の不思議トーク。自分の中で勝手な思い込みがあるのだが、『キッチン』が執筆された八十年代のインテリ娘はみんな『もう頬づえはつかない』状態だったと思っていて、この作品も当時の雰囲気を反映した文脈が延々と綴られていくのかと身構えていた。しかし、しばらくの後にそれは杞憂であったことを知る。私の無骨な感性でも吉本ばななの文体はすっと頭の中に融けこんでいった。
 いや、むしろ吉本ばななが『キッチン』という小説世界を早々に作り上げ、その世界の中で定められた憲法の下に読者に市民生活を営むように仕向けていたのかもしれない。そんな市民生活はかなり快適だったといえる。
 「人との間にとったスタンスを決して崩さないくせに、反射的に親切が口をついて出るこの冷たさと素直さに、私はいつでも透明な気持ちになった。」こんな文面でも市民になってしまえば十分に心地よいのだ。もちろん彼女自身にそういう自覚も意図もあるとは思えないが、これだけ世界中に翻訳されて、愛読されている数少ない日本人作家なのだから、おそらく吉本ばななの世界には国境線などないのだろう。

 さて、初出はどうだったのかは知らないが、この福武書店文庫版には表題作の『キッチン』と、その続編である『満月』、日藝の卒業制作として出品した『ムーンライト・シャドウ』の三編が収録されている。共通しているのは「身近な者たちの死」ということになる。
 私は幸いこの齢でも両親は健在で、身近な者の死というものに接したことがなく、経験値から『キッチン』のテーマを捉えることは出来ないので、主人公・みかげが祖母の死に際して、喪失感とじわじわと忍び寄る孤独感から“家中の中で台所がもっとも安住できる場所”になるという感覚をどこまで理解できていたのかわからない。しかし、なるほど、冷蔵庫の電動音に癒されるというのはあるのかも知れないと思う。冷蔵庫には間違いなく生きるための糧が収められており、台所は家族が生きていくことの象徴的な場所であるからだ。
 しかし、「ただ星の下で眠りたかった」「朝の光で目ざめたかった」というみかげもいつまでも冷蔵庫の傍で時をやり過ごしてはいられない。「現実はすごい。」のだ。そこから物語は急転していくのだが、そのあたりが今思えば世界の改札口だったのでないか。

 みかげが家を出ることになったのはマイペースな気風の青年・雄一とその母親・えり子さんに同居を持ちかけられたからだ。えり子さんは綺麗な女性であるが本当は性転換した雄一の父親であるという仰天すべき人物で、続編の『満月』までも含めて『キッチン』という小説は、ほぼこの3人の登場人物で織り成されている。そして、その誰もがとても魅力的だった。
 みかげと雄一が日常を浮遊しながら現実と心象をどうやって折り合いをつけていこうかと戸惑っているのに対し、存在そのものが現実離れしてしているえり子さんの方は逞しく日常を生きている姿が面白い。しかし現実的なえり子さんに現実が容赦のない仕打ちを浴びせてくる。このあたりの吉本ばななの筆致は押しも引きも絶妙で、読者の方も深く思い入れされながらも淡々とページを捲っていくという不思議な感覚を体感してしまうのだ。
 おそらくえり子さんの悲劇がたったの一行で示されて、後はみかげと雄一の恋へと流れていく展開には賛否があるのだと思うが、「身近な者たちの死」によって、共同体が喪失され、そこから再構築のベクトルへと転換していく方向性には個人的には救われたという思いの方が強い。


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