◎エトロフ発緊急電

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◎エトロフ発緊急電
佐々木譲
双葉文庫


 640ページのボリュームがズシンと来る。直木賞を受賞したといっても『廃墟に乞う』などとは読後のカタルシスが違う。文字数の多さはそのまま主人公を取り巻く歴史的な背景の大きさと、密使を遂行するまでの困難な道程とシンクロする。やはり佐々木譲は正真正銘の長編作家だった。

 【海軍機動部隊が極秘裡に集結する択捉島に潜入したアメリカ合衆国の日系人スパイ、斎藤賢一郎。義勇兵として戦ったスペイン戦争で革命に幻滅し、殺し屋となっていた彼が、激烈な諜報戦が繰り広げられる北海の小島に見たものは何だったのか・・・。】

 物語は瓦礫が散在する灼熱のスペインから始まる。太平洋戦争前夜という設定で、『エトロフ発緊急電』という題名からするといきなり灼熱のスペインには意表を衝かれる。
 本作も前作『ベルリン飛行指令』同様、第一部が短いのだが、僅かなスペースの内に広島-函館-ニューヨーク-東京-横浜-択捉と刻むように舞台が転々とし、それぞれの場所で登場する人物たちのエピソードを拾いながら急ピッチで第二部、冒頭のカルフォルニアへと移り、この物語がどのように収束していくのかという興味が次第に煽られていく。その時点では船戸与一の『砂のクロニクル』のドラマツェルギーがイメージとしてあったような気がする。
 広島では前作でも登場する大貫中佐が山本五十六から海軍大臣宛ての書簡を託される場面が描かれている。その書簡にはハワイの米軍基地を奇襲すべしという提言が記されていた。そういった開戦前夜の歴史的な場面を重厚な場面から一転し、「降りしきる雪の向こうから、汽笛の音が響いてきた。深い井戸の底へ向かって吐息を吹きこんだような、低くもの悲しい音だった。」などと、名文ともいえる情景描写で冬の函館に舞台が移っていく。この名文は択捉出身の岡谷ゆきが時代に翻弄されながら故郷に帰らざる得なくなった、その後の運命を暗示しているようでもある。
 この様に『ベルリン飛行指令』同様に佐々木譲は実在の人物をほどよく織り交ぜながら、どこまでが史実でどこまでが創作なのかという皮膜の中で物語を進行させていく。

 さてこの長編の主人公は斎藤賢一郎、英語名ケニー・サイトウという日系アメリカ人。『ベルリン飛行指令』の戦闘機乗りの安藤大尉がハーフだという設定を残念に思い、そっと苦言を呈した私であるが、『エトロフ発緊急電』が日系アメリカ人であるのはこの物語にとっても必然だった。賢一郎はスペイン戦争に義勇軍として参加するも、革命にもイデオロギーにも挫折し、ニューヨークで殺し屋に身をやつしていたところをアメリカ軍に諜報部員として拾われるという経歴を辿っていく。
 賢一郎だけではなく岡谷ゆきもロシア人との不貞の子として生まれ、ゆきの家業(駅逓)で下働きをする宣造は千島アイヌの青年。キリスト教宣教師として東京で布教しながら諜報活動をしているスレンセンは、南京でフィアンセの中国娘を日本軍兵士に凌辱された挙句、惨殺された悲惨な過去を持つ。工作員の金森も強制連行の末に九州の炭鉱から逃亡した朝鮮人。こんな具合に本作の主要登場人物たちは日本にアイデンテイティを帰属させていないばかりか、むしろ怨嗟の念を抱く者たちばかりで構成されている。
 この小説が開戦前夜の緊迫した日本を描きながらも、どこか日本国という主体が日本人の私に響いてこないのは、そういうこともあるのかもしれない。
 ハワイで日本人の娼婦が賢一郎に「このアメリカさんと戦争する気になるなんて、日本って馬鹿みたいよね」と語る。確かに便所は水で流れ、シャワーの詮をひねるとお湯が出てくるような裕福な国に、娘を売り飛ばしているような貧乏な国が戦争を仕掛けることの愚かしさは当時から実感としてあったのだろうと思う。
 私は太平洋戦争が勃発し、次第に戦況が困窮していく過程で金属類回収令が出たと思い込んでいた。実際は開戦前の米英の経済封鎖で既にそこまで追いつめられていたことを初めて知る。
 佐々木譲はスレンセンの回想を借りて陸軍の南京での暴虐ぶりを再現してみせたが、同時に山本五十六の苦渋の選択も描くことで、日本が戦争にのめり込んでいく愚かさも、そうならざるを得なかった致し方なさも相対化し、あくまで史実に寄り添う形で開戦前夜の日本を描いていく。
 そのことは個人的には非常に有難いことではあった。最初に分厚い文庫本を手にしたとき、日本にどっぷりとアイデンテイティを帰属させている私が、戦時中、日本国内で活躍したアメリカ軍スパイの話を最後まで読み切ることが出来るものなのか一抹の不安もあったのだ。少なくとも『ベルリン飛行指令』のような爽快感は無理だろうと。

 もちろんカタルシスは爽快感だけに限るものではない。暗い結末も切ない後味も、本を閉じたときに情動を動かされたものすべてがカタルシスだと思っている。
 もともと『笑う警官』で、道警の包囲網を潜り抜けて百条委員会に乗り込む場面や、『警察庁から来た男』の千歳空港での大捕り物、『警官の紋章』のサミット結団式場でのパニックなど、佐々木譲がクライマックスの舞台で用意するボルテージの高さには唸らせるものがあったが、本作のクライマックスは真珠湾へ向けて出撃せんと極秘裡に待機する航空母艦が集結する択捉島。そのスケール感は警察小説の比ではなく、日本海軍の3分の2の兵力が結集した光景を思い浮かべるだけでゾクゾクしてしまった。
 
 そして追跡劇が始まる。追いかける憲兵の裏の裏をかきながら、青森から函館まで、そして根室から択捉へと、極寒の地を賢一郎が奔る。目的は択捉で見たものをアメリカ本国に打電すること。
 賢一郎はやがて岡谷ゆきや宣造のいる町へと流れ着いていく。遠くスペインからアメリカ、日本と漂流した賢一郎が、もつれた糸を手繰るようにゆきとひとつになる場面はこの小説のまさに白眉だ。
 「貴様らの帝国が滅ぶときには、おれのことを思い出せ。ひとりの女の心と世界とを、天秤にかけた馬鹿がいたと」。日本のためでも米国のためでもなく、死んだ仲間と愛する女のために賢一郎は最後の力を振り絞る。まさに佐々木譲、迫真の一筆だった。


 

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