◎きことわ

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◎きことわ
朝吹真理子
「文藝春秋」三月特別号


 【葉山の高台にある別荘で、幼い日をともに過ごした貴子と永遠子。ある夏、とつぜん断ち切られた親密な時間が、25年後、別荘の解体を前にしてふたたび流れはじめる。ふいにあらわれては消えてゆく、幼年時代の記憶のディテール……。】

 芥川賞受賞作品を「文藝春秋」誌上で読む。私はこれを怠惰な読書空間のある種の刺激として恒例化している。
 ある種の刺激とは純文学の洗礼と言い換えてもよいが、恒例化したおかげで、純文学も大衆文学も物語小説の括りの中で差異を見つけ出す作業そのものがまったくの徒労であることを実感するようになってしまった。
 畢竟、どれだけ御託を並べようが、つまるところ「面白いか面白くないか」の二元論に収斂されるのではないか。
 ここまで[読書道]などといっておきながら、その結論では些か実も蓋もなく幼稚であり乱暴であるのかもしれないが、少なくとも純文学、大衆文学という色分けには大した意味がないことだけはわかってきた。

 しかし「文学的な表現」ということを掘り下げると、そこには様々なスタイルがあり、単に「面白いか面白くないか、好きか嫌いか」で語ってしまっていいものなのかどうか迷うところではある。
 この現役の女子大院生が書いた『きことわ』という小説に対し、私が日常読んでいるような小説の基準で面白いか否かを語れば、間違いなく面白い小説とはいい難い。
 幼い日のひとときをともに過ごした二人の女性が大人になって再会する物語ということでいえば、葉山の別荘にしろ、25年の歳月にしろ、話を面白く膨らませていく舞台装置はいくらでもあると思うのだが、この小説はそういった物語文学のアウトラインに寄り添うことをはじめから前提にしていないものとして存在しているようだ。
 四半世紀ぶりに邂逅することになる永遠子と貴子の感情や心理が交錯し、夢なのか現実なのかひどく朧げな中で時間がふわふわと浮いているような感覚。この感覚を文章で表現し、行間で感じさせることも文学の一つの形であることには違いないだろう。
 おかしな話、私は朝吹真理子『きことわ』をかなり苦しみながら読んでいたのだが、芥川賞の選考で山田詠美が述べる「小説を書くということは、漠然としたかたまりに、それしかない言葉を与え続けて埋め尽くすこと」「後ろ髪を引かれる事柄について書かれた小説は数多くあれど、後ろ髪を引くものそのものを主にした小説は、私の知る限り、ほとんどない」という選考理由にはストンと腑に落ちるものがあった。
 
 ここで語られる事象の大半は永遠子と貴子が体験する事柄だ。葉山の別荘も、その近くにある蕎麦屋も、道路反射鏡だったのか向日葵だったのか判然としないものにしても、基本的には実存するものと隣り合わせながら彼女たちの時間は流れていくし、一見、文字で読むには捉えどころがなさそうな味覚や嗅覚、触覚にも意外と小説は直截的に表現していたりもする。
 しかしその事象のひとつひとつが彼女たちの心象風景となっていくのがこの小説の不思議なところなのかもしれない。
 こういう映像表現で語られる映画は何本か観たことはあるが、小説で読んだのは初めてだった。考えてみれば、この小説の重要なファクターである「夢」というものは、現実の時間の中で視野に捉えている風景ではなく、睡眠中に視覚以外の場所で投影されている映像を観賞しているといえないだろうか。
 私がこの小説に違和感を抱いていたのは、その心象風景の間にどれだけの時間が流れているのかを掴み切れなかったことにある。
 変な話、主人公が50メートル歩く距離で思い巡らす心象風景が、50メートルを歩くのに費やされる時間を超越してしまうと、どうしても気分が落ち着かなくなってしまうのだ。
 このあたりが私がいつまで経っても真っ当な読書家になれない所以なのかもしれない。 
  


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